私がちいさかった頃、我が家にあった外国製のカメラは今でも我が家にいろんな写真を
なぜ“記念写真”と言うのか。
当時は写真を撮るという事は今のように気軽なものではなかったのかもしれませんね。
江戸時代末期に写真が日本に伝わり、当時の先進的な武士や豪商達が自分達の肖像を残
こういう図式故かどうかは判りませんが、父の古いアルバムを開くと、そこに貼られて
そんな緊張感を伴わせながらも父は写真を撮るのが好きであったようで、事あるごとに
私自身は中学生になると、そんな記念写真が嫌になったのか、私のアルバムでは思いき
私はそういった緊張感のある記念写真を見るたびに、もう亡くなってしまった父を思い
残してくれています。
私が生まれる前に撮影されたものも随分あります。
そのほとんどは人物写真なのですね。
当時の私の父は写真といえば人物を撮るものと思っていたのでしょうか、風景や静物等
の写真はほとんどありません。 あるいは、昭和20年代といえば、我が家の周辺では
カメラ自体が珍しい存在であり、みんながそれで自分を撮ってほしがったからなのか。
とにかく、そのほとんどが人物を撮った記念写真なのです。
それは、当時の写真に写っている人達はほとんどがカメラに向かって直立不動で立って
いるからなのです。 おそらく進駐軍の基地内であろうところで、若き日の父が米兵と
並んで写っている写真、お墓参りの時の墓の前で私の生まれる前の家族が並んで直立し
て写っている写真。 家の前で近所の人達と並んで直立して写っている写真。 会社の
慰安旅行で社員の人達と並んで直立して写っている写真。
それらがほんんど全てと言っていいくらいに、みんなカメラに向かった直立不動の姿勢
で、表情も真面目なもので、いかにも記念写真を撮っていますよ、というものばかりな
のです。
笑っているものや、スナップ的な動きのあるものはほとんどありません。
本格的なカメラ自体が珍しかったでしょうし、フィルムも高かったでしょうし、現像や
プリントの料金も高かったので、気軽に写して気軽にプリントという訳にはいかなかっ
た。 だから、1回1回のシャッターをおろそかには出来なかった。 だから、写す方
も写される方も緊張の中での撮影となり、その緊張感が写真を記念写真的に仕上がりに
してしまったのではなかろうかと思いますが、そうだったのでしょうか?
すべくカメラの前に立ちました。 その頃のカメラとしいのは銀塩をガラス版に塗布し
たフィルムを使用していて、感度も当然低かった事から、被写体はカメラの前で15分
間も静止していなければならなかったと言います。 それこそ緊張と脂汗のまみれた写
真撮影だったでしょうね。
その頃の写真撮影イコール緊張、という図式が長く続き、昭和になり、戦後になっても
写真を撮る、と言うと緊張するという条件反射が残っていたのではないかとも思ったり
もします。
いる写真のほとんどは緊張感のある直立不動の構図ばかりなのである。
私の父は普段からあまり笑わない人であったのですが、アルバムの中の父はさらに輪を
かけて仏頂面ばかりで、笑っている写真は1枚もありません。
私が成長してから父を撮ったりもしているのですが、その写真の中でも父が笑っている
ものはほとんど無い。
いつもカメラに向かって直立し、仏頂面している父。
写真というと、どんな撮り方をしても記念写真になってしまう父。
カメラがついてまわっていたように思います。
私が小学校の頃、父の会社の車で春休みや夏休みによく家族で日帰り旅行に出かけまし
た。 その時など、名所旧跡に着くたびに、あるいは休憩で車を止めるたびに父はカメ
ラを持ち出し、私達家族を並ばせて記念写真を撮っていました。
小学校当時の私は、写真というのはそういうものなのだと思っていたものですから、私
自身もカメラを向けられれば直立不動の姿勢をしていたのです。
り自由なポーズや表情をするようになりましたが、父の撮ったものはやはり直立不動の
ものばかりなのです。
これはやはり撮る側の思い入れなのでしょうね。
父の思い入れが撮る写真をすべて記念写真に仕上げてしまっていた。
出すのでした。
憂想堂
E-mail:
yousoudo@fspg.jp