私が初めて自分自身の個展を開いたのは高校2年の時でした。
私の通っていた高校は生徒の自主的な活動に対してとても理解のある高校でした。
さて、私の初めての個展なのですが、ひとつのテーマを決めて展示作品を作っていった
そういう時代に私の選んだテーマが「公害」だったのです。
公害とは体制側が経済進歩の裏側で作り出した負の産物でした。 常に繁栄の裏側にあ
私は三重県四日市へ行きました。
つぎは大阪市内のバイパスで、登っていく車を撮りました。
その次は淀川河口へ行きました。
個展では、それらを各パートに分け、公害告発として3部作にして構成しました。
個展が開催され、校内の生徒たち、友人達が見に来てくれました。
個展会場ではアンケートを取っていました。
開催期間が終わり、私としては満足のいく入りであったと思っていたのですが、その後
感想として「よかった」とか「よく出来ている」というのも多かったのですが、私を愕
私は煤煙を吹き出す煙突や車に対するものとして、単純に煤煙を吐かず、人力で安心し
確かに私はそこまで考えずに作品構成をした訳ですから、その構成力の甘さに落ち込む
しばらくは私は「腕を組み胸を抱えるヘルマプロディトス」の心境でした。
しかし、私は生来、物事に執着したり落ち込むタイプではありません。
個展と言っても本町や淀屋橋の画廊を借りて開いたものではなく、私の通っていた高校
の中庭に生徒が個展を開く時に貸し出ししてくれる一戸建ての展示場があり、そこを借
りてのものでした。
申請すれば展示場を使わせてもらえましたし、そこに校外からの観覧者を招く事も認め
られていました。 その展示場へのマスコミの取材に対しても寛容でした。
こういう土壌があったせいか、私の母校からは数多くの芸術家や芸能人、アーティスト
が世に出ています。 それらの人達については後段にて記述したいと思いますが、とに
かく、私の母校は私の感性を育ててくれた、母のような学校だったですね。
のです。
そのテーマは「公害」でした。
とても堅いテーマだと思われるかもしれませんが、当時、昭和40年代後半は若者達が
反体制を唱えるというのがひとつの風潮でもあった時代です。
音楽でも岡林信康が反体制ソングを歌い、教祖としてあがめられていた時代です。
当時の私は岡林にかなり影響されていた部分があります。
「山谷ブルース」「流れ者」を聞き、大阪釜崎へ日雇い労働者を取材に行ったり、
「私達の望むものは」「性と分化の革命」を聞いては反体制を叫んだり、
「チューリップのアップリケ」「手紙」を聞いては部落差別反対運動に参加したり。
そしてキャンプファイヤーで「友よ」を友人達と肩を組み歌っていたものです。
るものでした。 繁栄がなければ公害もなかったと思いますし、日本が急激な経済成長
をとげた裏側についてまわっていたものです。 今でこそ公害に対する世論は厳しくな
っていますが、昭和40年代は経済成長が最優先であり、その裏側の公害にはまだまだ
目を閉ざしていた時代でした。
私は、その「目を閉ざされた」部分を作品として取り上げたいと思ったのです。
そういう反体制を表現するのが「かっこいい」と思っていた時代でした。
当時の四日市は、四日市工業地帯の吐き出すスモッグで地域的な喘息被害や呼吸困難患
者が多数出ている都市でした。 その郊外都市を撮ろうと思ったのです。
その時、私の見た四日市はひどい状況でした。
工業地帯には煙突が乱立し、それらからもうもうと黒煙が吐き出しつづけられていまし
た。 近隣の家屋の壁は黒くすすけていて、住民はマスクをしてそれらの煤煙を逃れて
いました。風の無い日は100メートル先がスモッグのためかすんで見えました。
正直言って「よくこんなところに住んでいるな」と思ったものです。
現在ではほとんど見る事は出来ないのですが、当時は2サイクルエンジンの車がまだ走
っていました。 その2サイクル車やディーゼル車が坂道を登る時、ものすごい排煙を
吐き出します。 その排煙を吐く車を一日中追いかけていたのです。
淀川河口の大阪湾に隣接する地域は一般住民はほとんど立ち入り禁止になっていました
が、そこでは大企業の経営する製鉄工場が広大に土地を占有し、鉄を精製していたので
す。 当然溶鉱炉からでる重油の排煙や冷却排水が淀川に垂れ流しになっており、その
事実を隠すため、大阪市もグルになって立入禁止区域を作り、一般の人達を寄せ付けな
かったのです。
私は河口から堤防沿いに立入を阻止するための金網を越え、排水が垂れ流されている現
場の写真を撮りました。 昼間は煙が出るのを止めていた煙突も、深夜にはもうもうと
煙を吐いていました。 それらを撮りに行ったのです。
そして、第4部として、「自転車」をテーマとした作品をつけ加えたのです。
当時の私の友人達が手作での自転車を作り、それに乗って遊んでいましたので、その自
転車ののどかな絵を「公害」の対比として第4部に構成したのです。
公害でもビラを配りましたので、そりを見た人達も来てくりました。
開催期間中は結構盛況であり、反響もたくさんありました。
批評や感想を書いてもらうためでした。
で集計したアンケートを見て愕然としました。
然とさせたのは「公害を追う姿勢は判るが、自転車でその結としたのは間違いである」
「自転車はけっして公害の対極ではない」「自転車がどうして作られているのかを考え
ると、第4部が結論とはなりえない」という意見が多かった事です。
て乗る事のできる物、として比較物として表現したのですが、その考えは浅かったので
すね。 私の作品構成に批判を言ってくれた人達は、自転車の作られる行程において、
すでに公害の産物であるという指摘をしたのです。 パイプフレームはスチールであり
その原料は製鉄所から鉄工所を経て出来るものであるし、塗装や組立の段階においても
「公害」とは無縁ではない。 さらに配送の際にはディーゼルトラックに乗せられて運
ばれるのであるから、自転車をして公害の対極というのはあきらかにおかしい。 と、
言うものでした。
事になるのです。
そこから私はさらなる自身の作品の制作に向けて情熱を燃やしていくのでした。
憂想堂
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