私の高校時代は大阪西成の釜崎(かまがさき)という区域で労働者達の暴動が起こって
私達が何度か釜崎に通っているうちに顔見知りになり、言葉を交わすようになった人達
私が高2の冬、とても寒い日でした。
どのくらい話ししてたか判らないのですが、私とUが三角公園の火柱のような焚き火を
私はその場に立ちすくみました。
私達は警察が来るまで待っていようと思っていたのですが、集まっていた中のひとりが
釜崎から阿倍野までの道すがら、私とUは何も喋らず歩きました。
ところが、それから数年後、Uは首つり自殺の現場に遭遇するのです。
もし私がUの代わりにその場にいたら、私はその現場を写真に撮っていただろうか?
いました。 季節労働者や日雇い労働者の待遇改善を求める運動から発生した地域暴動
だったのです。
当時、ドキュメンタリーを撮りたいと思っていた私は、その先駆者であるUと一緒によ
く西成に出かけては暴動による投石や焼き討ちなどを撮影していたのです。
暴動により仕事にあぶれた日雇い労働者達の姿も追い続けました。 そのほとんどは地
方出身者の人達で、農業や林業の閑散期に都市へ仕事を求めてやってきた人達でした。
もいました。 その人達は地方なまりで人なつこく、私達にも気軽に声をかけてくれる
人達でした。
その中で、私達が「おっちゃん」と呼んでいた人がいました。
歳のころは50歳過ぎくらいではなかったでしょうか。
おっちゃんはいつも酒を飲んでいました。
私はおっちゃんが仕事に行く姿を見た事もなかったし、仕事に出ているという話しも聞
いた事がなかった。
それなのに、どうして毎日酒を飲んでいられたのか判りませんでしたが、とにかく、い
つも道ばたに座り込んで酒を飲んでいたのです。
酔いにまかせて私達にもよく話しをしてくれました。
郷里の事、釜崎へ流れてくるまでの仕事の事。
地方官庁の役人だったと言っていましたが、本当のところは判りません。
小柄で、いつも背中を丸めてカップ酒を飲んでいる気だてのいいおっちゃんでした。
釜崎へ行くと、暴動のあおりで仕事にあぶれた人達が三角公園でとてつもなく大きな焚
き火をしていて、その火柱のような火のまわりに大勢の人達が輪になり暖を取っていた
のですが、その輪の中におっちゃんの姿は見えず、そこから少し離れたプレハブの軒下
でおっちゃんは丸くなっていました。
私達が
「おっちゃん、こんな寒いとこでなにしてんねん」
と声をかけますと。
「いや、ぬくいよ」
と言って笑いながら、いつものようにカップ酒を飲んでいました。
私は自販機からカップ酒を3本買って来て、私とUとおっちゃんとで分けて飲んでいま
した。 いつものようにおっちゃんはよく喋ってくれました。
しかし、焚き火から離れているため、とても寒く、私はおっちゃんを焚き火のところに
連れていこうとしましたが、そのたびに、
「ぬくいよ」
と言って、おっちゃんは動きませんでした。
見ながら話しをしていて、ふと、おっちゃんを見ますと、おっちゃんは座ったまま、自
分のヒザを抱えるように眠っていました。
「しゃあないな、酔うて寝てしまいよったで」
「こんな寒いとこで寝たら死んでしまうで」
と言いながら、私はおっちゃんの肩をゆすったのですが、おっちゃんは目を開ける事は
ありませんでした。
私とUは次第に異様に気づき、周囲にいた人にそれを知らせました。
すると、焚き火のところから何人かの人が来て、おっちゃんの身体を触ったり、まぶた
を開かせたりしていたのですが、やがて、
「死んでるわ」
と言って手を離しました。
ついさっきまで私達と話してしたおっちゃんが、ほんの少しの間に死んで、この世の人
ではなくなったなどとはとても信じられませんでしたが、すでにおっちゃんは冷たくな
っていくところだったのです。
Uは、「救急車呼ばな」と言いましたが、その場の人達は、
「あかんて、来てくれへんて」
「釜崎の行き倒れに救急車は来てくれへん」
とあきらめ顔で言うのです。
「警察に知らせて無縁仏に入れてもらお」
と誰かが言い、警察に連絡を入れました。
おっちゃんにも家族があるはずで、知り合いもいるはずで、決して無縁仏という訳では
ないと私は思いましたが、ここでそれを言っても、それを確認出来る人は誰もいないだ
ろうし、身元を証明するものも無いだろうから、どうしようもない、とも思いました。
「兄ちゃんら、警察が来る前にここから離れ」
と言いました。
「警察が来たら、死んだ時、その場にいた者が事情聴取で連れて行かれる、兄ちゃんら
学生さんやろ、警察ではろくな事聞かれへん、ここから離れたほうがええ」
と言うのです。
私はその場に残って、警察におっちゃんの死んだ様子やこれまでに聞いた事を話そうと
思っていたのですが、Uが私の腕を引っ張り、その場を離れたのです。
その日、私もUもカメラを持っていたのですが、おっちゃんの死は写しませんでした。
写せなかったのか? 写さなかったのか?
それは今になっても判りません。
私の手元には酒を飲みながら楽しそうに笑っているおっちゃんの写真だけが残っていま
す。
きっとおっちゃんも郷里を離れた大阪でのひっそりとした死を写されたくはなかったと
思いますし、それを写したとして私に何が出来ていたでしょう。
私はその時、Uも同じ思いであったと思っていました。
Uはその場で、その姿を写真に撮りました。
撮ったままの構図では、木の枝から降りたロープに首を吊られ、足が地面から離れて完
全に宙の撃ていてる状態のものだったのですが、Uはトリミングで足が地面から離れて
いるところをカットし、首はくくっているけれど、果たして身体が宙に浮いているのか
あるいは足は地面についていて首つりの格好だけしているのか判らない構図にし、人物
をフレームの端に寄せ、木々と枝葉、その木々の間から遠くのビルが見えていて、それ
らが朝もやにかすんでいるという絵にしました。
その作品に「男の朝」という題名をつけ、発表しました。
その作品は当時カメラ雑誌で紹介されましたので見た方もいらっしゃると思います。
それは、それからの私の人生において常にわき上がってくる疑問となるのでした。
憂想堂
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