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《 第十六話 母校 》


私の卒業した高校はたぶん変わっていたのだと思います。            
芸能人や芸術家を多く輩出した高校であり、自由業や自由人になる卒業生の多い高校
であります。                                
私の知っている範囲だけでも、                        
憂歌団、ツイスト、ハウンドドッグの鮫島、時任三郎、ハイヒールモモコ。 高校時
代にミスインターナショナルの日本代表になった女の子(名前忘れた)、毎日放送の
アナウンサー、同じく毎日放送のパーソナリティ。               
芸術家では陶芸家の藤原郁三、洋画家の宮田健一、森本健司。          
漫画家では六田登、吉村孝。                         
カメラマンでは梅本吉成、木村修平、石森睦、井上真。             
私の知らない年代においては、某有名女優、吉本の漫才師、ピアニスト等々。   
とにかく多いのです。                            
普通、どこの高校でも芸能人や芸術家は出ますが、これだけ密集して出るというのは
珍しいのではないでしょうか。                        

これは私の在学当時の校長の教育方針におうところが多いのではないかと思います。
Y校長の教育方針は「自由に学べ」でした。                  
私の母校の正門や通用門は授業時間にも閉まる事はありませんでした。      
それは「高校は義務教育ではない。 学びたい者は来ればいいし、そうでなければ強
制されて来るところではない」という理念に基づくものでした。         
ですから、午後から学校へ来る者、午後から学校を出ていく者、いろいろいました。
Y校長は、勝手にこなくてもいい、と言っていた訳ではなく「授業をエスケープする
からには、その授業と同じ、あるいは勝るものを校外で得てこい」という考え方だっ
たのです。                                 
しかし、単位不足はシビアにカウントされ、留年する者も多かったですね。    
私が1年で入った時には40人のクラスだったのですが、上から5人落ちてきて45
人のクラスになりました。 それが卒業時点では36人になっていたのです。 その
ほとんどは単位不足で落ちていったのです。                  

制服は無く、髪型も自由でしたから、長髪の男子生徒やパーマをかけた女子生徒も多
くいましたし、髭をはやした生徒もいました。 私が1年当時の生徒会長はアゴから
口のまわりから見事な髭をはやしていて「ヒゲの生徒会長」と呼ばれていました。 
当然靴も自由で、下駄履きでも良かったのです。                
漫画家の六田登などは在学中モジャモジャの長髪で、無精ひげをはやし、背中にペン
キで「今も昔も赤まむし」と書かれたグリーンのよれよれのコートのようなものを着
て登校していましたし、憂歌団の内田勘太郎は腰まである長い髪をしていました。 
私は柔道着のまま登校し、その姿で授業を受け、放課後そのまま道場へ向かったりも
しました。                                 

中庭にはいつでも生徒が個展を開けるように、解放された個展会場があり、そこもよ
く利用されていました。                           
文化祭は盛大で、学校中があらゆる展覧会場となりました。           
その展示作品においてもいっさい学校側の検閲は無く、あくまでも生徒の自由な感性
と創造力が優先されました。 ヌード作品を展示しても何も言われる事はなかったの
で、女生徒が自分のセルフヌードを撮影して出展する事もありました。      
私も自身の作品を数多く出展し、Y校長はその1点1点を丁寧に見ていって下さいま
した。                                   
とにかく、自由に創造する力をつけるという事をとても大事にしてくれる校風であっ
たと思います。                               

演劇でも自作脚本の劇が盛んで、講堂の舞台は文化祭の間中盛況でした。     
私も当時脚本を1本書き、上演してもらいました。               

生徒の作った自主制作映画の上映もあり、じつに楽しい文化祭でしたね。     

また文化祭では校内のあちこちの教室がライブハウスになり、将来のミュージシャン
を目指す連中がライブをやっていました。                   
憂歌団も現在のメンバーになる前の姿で(ドラムが違った)ライブをやり、教室に入
りきれなかった連中が廊下に溢れて聴いていました。              

そんな高校だったものですから、私はおそらく受験校で進学一筋だった同世代の連中
より、かなり多くの創作活動が出来たと思っています。 10代には10代にしか無
い感性があります。 それをその時期に発揮出来たという事は、その後の私の人生に
とってとても大きな財産になったと思います。                 

今の私の“遊”と“創”と“童の心”はこの時期に母校に育ててもらったものだった
のです。                                  




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