絵や写真を見て、あるいは音楽を聴いて感動するという事は誰にでもある事だと思い
では、写真の世界において、その場の空気まで変えてしまうカメラマンとは私にとっ
「文楽」では張りつめた緊張感を、「室生寺」では深遠さを、「野仏」では落ち着き
私は、土門拳さんは超能力者ではなかったかと思ってしまう事があります。
超能力そのものについては真偽のほどを問われますが、要するに自分が何を撮りたい
「風景を撮りたい」ではなく「こういう風景が撮りたい」であり、「ポートレートを
ます。
私の場合、絵画であるならレンブラントでありフェルメールでありドガ。
彫刻家ならロダン。
人形であるなら辻村ジュサブロー。
映画監督であるならフランコ・ゼフリェッチであり黒澤明です。
文学でいうなら三島由紀夫にダンテ。
音楽であるならセロニアス・モンクとキース・ジャレットそれに内田勘太郎なのです。
内田勘太郎のアコースティックギターを生で聴けば、彼が弦をつまびくたびにその場
の空気がぴいんと澄んだものに変わっていくように思えます。
その空気の浸透はレンブラントの絵画の中にもあり、ゼフリェッチの中にも感じられ
るのです。 辻村ジュサブローにいたっては私は彼を本物の妖術師であると信じて疑
っておりません。
て誰なのか?
たんに好きというカメラマンは現代作家にいますが、好きという範疇を越えて“凄い”
というまでにはいたっていません。
私にとって、本当に凄いと思うカメラマンは土門拳さんなのです。
と神妙とを与えてくれました。
モノクロではありますが、恐ろしいまでにシャープな奥行き(精神的な奥行き)を私
に感じさせてくれます。
緻密な描写と大胆な表現。 それに影と光りという根本的な映像表現をここまでと思
うほどに作り上げています。 その映像には執念さえ感じられますし、「筑豊の子供
達」では子供達を通して人間の強さと哀しさを見せてくれます。 ここまで写真の世
界で表現しきれたカメラマンはいないのではないか。
もし土門拳さんがヌードを撮れば、どんな作品になったかと思うと身が震えるようで
す。
なぜならば彼の作品は「あるものを写す」ではなく、「このように写す」という思い
をその場でそのように作り上げる、さらにはその場にいた人達をそのような世界に引
きずり込み、それを感じさせず、それがそのまま時自分の狙い絵としてしまう能力の
持ち主ではなかったかと思えるのです。
それは風景においてもそうであり、有名な逸話ですが、「雪の室生寺」を撮影した時、
前日まで晴れていて、雪など降る気配もなかった。 ところが土門氏が「雪の室生寺
を撮りたい」と言って一晩明かせば、翌朝には見事に雪が積もっており、あの有名な
「雪の室生寺」をものにしたといいます。
かという「思い」そのものなのではないでしょうか。
撮りたい」ではなく「こういう思いを入れたポートレートが撮りたい」ではないかと
私は思うのです。
カメラや機材に対する思い入れも大切だと思いますし、技術も大切なものだと思いま
す。 しかし、まず、「撮りたい」という思いと、「感動」する心なのではないでし
ょうか。
憂想堂
E-mail:
yousoudo@fspg.jp