かなぶんの撮影が決まってからロケに出るまで一ヶ月ありました。
この間、私はかなぶんに関する予備知識をつけておこうと思い、かなぶんが出ている
あらゆるメディアを漁りました。
その結果、ビデオ10本、写真集4冊、グラビア誌充数冊を見る事が出来たのですが
これが失敗というか、ロケでの混乱の元となったのです。
私の見た範囲での事ですが、その中に出ているかなぶんは一様に“可愛いくて、活発
で、そしてちょっとロリっぽく、不安定な”というイメージ、つまり“10代の可愛
い女の子”というカテゴリーに振り当てられたものだったのです。
これはかなぶんのデビュー作「金沢文子18歳 -ときめきエイティーン-」が大当た
りしたため、そのイメージをAVでも雑誌等でもそのまま引っ張ったためではないか
と思われるのですが、そしてそのイメージを私も予備知識として掴んでしまった。
事前に実物と会っていたにもかかわらず、作られたメディアのイメージをもって自身
の作品イメージを作ってしまっていたのですね。
それは作家としては失格ともいえる行為であったのではないかと反省しているのです
が、とにかく出発するまではそのイメージで固めてしまっていたのです。
ところが成田空港で合流し、シスコでの1日を終えるまで約30時間、ずっと一緒に
いた訳でありまして、その間にじっくりと見ていますと、それまでのメディアで感じ
た“可愛い10代の女の子”のイメージが根本からひっくり返されたのです。
かなぶんはもうすでに“10代の女の子”ではなかった。 もちろん実際にも21歳
になっていた訳ですが、その性格、立ち居振る舞い、しゃべり方、雰囲気、オーラ等
それぞれが“女の子”どころか立派な“おとなの女性”であり、メディアで見た、跳
ねて転がるイメージは一切無かった。
つまり、デビュー当時はそうであったかもしれないのだが、この4年の間にかなぶん
は成長し、大人になっていたのである。 にもかかわらず、メディアはデビュー当時
の爆発的なイメージを続けて求め続け、かなぶんもそれを演じていたのではないか。
事前に会った時にも当然それは見えていたはずなのに、その後の一ヶ月で私はそれを
失念し、作られたメディアのイメージをそのものと思いこんでしまっていたのである。
私はいささか慌てた。
私はこの作品のサブタイトルを「ライブアクション」とし、演技や作り物ではない女
の子の素の表情を追いかけたものとしようとしていたのである。
つまり、跳ねて転がる女の子、かなぶんの日常を演技無しで撮ろうと思っていたので
した。
ところが、かなぶんの素は決してそうではない。
もちろん演技として求めればかなぶんは充分に応えてくれる演技力を持っている。
けど、それは演技でしかないのだ。
1日目が終わり、明日から撮影に入るという段になって私は大いに迷ったのです。
本来なら1日目の夜に翌日の撮影の打ち合わせをしようという事になっていたのだが
幸いにしてかなぶんも疲れたという事で、立ち会わせを翌日の朝にする事にして私は
ベッドでひとりずっと思い悩む事となったのでした。
私は一晩ほとんど眠れなかった。
翌朝、かなぶん、Cさん、W氏と私で打ち合わせをした。
撮影場所の打ち合わせ、衣装の打ち合わせとともに、どんなイメージでいくかという
話もしました。
私は結論として“今の、21歳のかなぶんそのものを撮ろう”という事にしたのです。
かなぶんには「演技ではなく、君がオフでシスコに遊びに来て楽しんでいる感じを撮
りたい。 だから本当にシスコの街を楽しんで欲しい」と伝えました。
かなぶんはその場では気軽にOKしてくれました。
しかし、実際に撮り初めてみると、これが簡単なものではなかったのです。
メイクをしてもらい、衣装も着て、まずはホテルの前から撮り始める。
そこからフィシャーマンズワーフへ移動。
昨日かなぶんが近づくのも嫌がった屋台街へ行き、その中でも撮りたいと言うと気軽
に応えてくれる。 しかし、数カット撮って「OK」と言うと途端にダーーーっと走
って逃げ出す。
まあこれも愛嬌なのですが、撮り進んでいくにつれ、私は違和感を感じ始めたのです。
それは何かというと、かなぶん自身、素であるという事を理解してくれているである
が、やはり演技なのである。
カメラを向けていない時には大人っぽい雰囲気であるのにカメラの前に立つと自然に
少女の顔が出てくる。
それがあまりに自然な故、私はまたまた混乱してきたのである。
フィッシャーマンズワーフからフォートメイソンに移動。
そこのショッピングセンターで買い物をしてもらったり、コンビニに入ってもらった
りし、観光を楽しむ女の子の自然な姿を追いかけた。
私はほとんど具体的なポーズを要求せず、ファインダーをのぞき込んだまま、かなぶ
んと話をしながらシャッターを切り続けた。
かなぶんは笑うととても可愛いのである。
しかし、この時点で私は違うものを求めていた。
かなぶんは本当に綺麗のである。
整っているのである。
その綺麗さを“綺麗なお姉さん”というイメージでとらえようとしていたのである。
しかし演技的なものは求めたくなかった。
だからひたすら話をしながらそういう雰囲気に持っていこうとした。
そうした撮影スタイルにかなぶんは違和感を持った。
いつもと違う、という感じになってきた。
もしかしたら「何これ」という思いにもなっていたのかもしれない。
チャイナタウンに移動した時にはかなぶんも精神的に疲れてきたようだった。
私自身が矛盾と戦いながら撮っていたのであるから、撮られているかなぶんにもそ
れは伝わっていたであろうし、しかしそれにしては演技を要求しない私に困惑した
のかもしれない。
このコンセプトの混乱は結局最後まで続く事になる。
3日目からは私もちょっと作戦を立てたのであるが、それはまた次号。
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