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《 第四十三話 一生物 》


カメラというのはプロがビジネスとして使う、というところから、アマチュアが趣味
で使う、子供の成長記録として使う等々、幅広く使われている“道具”であると思い
ます。
私はこの“道具”という言葉が好きで、物に対する愛着を表しているものではないか
と思っているくらいです。
愛着ある道具ですから当然長く使っていたい。
出来れば一生物として使っていきたいと思ったりもします。
しかし最近のカメラはまるでパソコンのように次から次へと新機種が発売され、買っ
たばっかりで新製品だと思っていたら半年もたたないうちにさらなる新機種が発売さ
れ、自分の持っているものは性能が劣ったものになってしまっている、という事がよ
くあります。
特に最近の電気式カメラ(銀塩、デジタルを問わず)はカメラの基本的な部分は機械式
であるにもかかわらず、それらを管理コントロールする部分や液晶部分がICで構成さ
れていて、それらの部分の寿命が非常に短い。
という事は、それらの寿命が切れれば、撮るという基本的な動作すらもしてくれなく
なり、そのカメラは“道具”ではなくなり、たんなる飾りにしかすぎなくなる。

これが機械式のマニュアル機であるなら、元々電気には頼っていない訳であるから、
内蔵している電池が切れようが、露出計が動かなくなったり、シンクロ接点が効かな
くなるだけで“撮る”という基本動作はちゃんとおこなってくれる。
となれば、マニュアル機は一生使っていける“道具”と言えるのではあるまいか。
もちろんシャッターユニットのへたれもあるでしょうから精度は落ちてくるが、その
へんの誤差がまた愛着ある“味”と感じられたりしますから、それも良いものかもし
れません。

私はマニュアル機としてはNikon F、Nikon F3、Pentax SPを持っています。
おそらくこのうちのFとSPは一生私の元にあり、その時々に私に作品を撮り続けさせ
てくれるでしょうし、私が死んだ時には形見の品になるものだと思っています。

みなさん、愛着のある道具を使っていますか?


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憂想堂
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