だいたい、芸術とは何か?という議論になってしまうと決着がつきませんのでそれはは
ヌードとひとくちに言っても幅が広いですね。
日常の中に見る裸を忠実に描写するものもそうだし、身体を物体として見る事によって
そこから描き出されるフォルムを無機質に見せるのもそうです。
30年前のカメラの技法書にはこんな記述があります。
「裸婦というのは非常に特殊な素材なので、下手をすると現実感を伴い“危な絵”的な
効果に陥りやすい。 特に全身を扱う場合はなおさらそのような危険性が生ずる。
そのため、裸婦の部分をクローズアップするという手法をとる事がしばしばあり得る
のである。 例えば長焦点レンズで引き寄せた腰部のクローズアップはダイナミック
なフォルムを形成していて美しい。 もはやそこにはナマの現実味は無く、オブジェ
として抽象された量感の魅力だけが見られる」
これはつまりですね、芸術において生身の裸婦の生々しさを出すと“危な絵”つまり、
エロであるという事であり、それを避けるために全身の表現を避け、部分的なクローズ
アップで抽象的なフォルムの美しさを出そう、という意味であるかと。
こんなもの30年も前の技法書やんけ、と笑ってはいられません。
現在にしてもカメラ雑誌やフォトコンテストには立派に生きている論法なのですから。
ただ、昔と違って現在はそういったものばかりではなく、生々しい表現もひとつのジャ
ンルであるという認識が定着していますので、いかな撮り方をしても“危な絵”である
と捉えられる事はなくなってきているみたいですね。
しかし、とあるヌード撮影会で講師として参加した時、もうひとり招かれていた老講師
は、モデルが自然に笑うと「そんな笑いじゃだめだ」と言って、手取り足取りマネキン
のようにポーズと表情を作らせ、それで停止状態で決まったところを参加者に撮らせて
いた。
こういった講師はやはり古いタイプのカメラマンであり、裸婦の生々しさは“危な絵”
であり、現実味のない抽象的なフォルムで捉えたヌードが芸術であると信じて疑わない
石頭である事は間違いないですね。
ぶきますが、そんな狭い枠にはめようとするところがいかにも堅い。
写真にしろ絵にしろまず楽しむという事が大切なのですね。
その中からものを作ろうという気持ちが芽生えてくる。
そして創るのである。
作品というのは創りたいという気持ちから生まれてくるものである。
だから自然に自由に創っていこうではありませんか。