例えば朱鷺智庵さんがテーマにしている富士山であるが、とにかく、そこに行けば
というふうに、自然の中には時間によって光の方向や色の変化があるし、季節によ
とすれば、意図した風景を撮るためには、自然を知り、季節を知り、その上で意図
といって、難しいからとはなから諦めてしまうのも悔しいではないか。
自分が写そうとする被写体は、突き詰めればどんなジャンルであっても難しいもの
である、それが人であっても静物であっても風景であっても。
その中でも私が難しいと思うのは風景写真である。
なぜ風景写真は難しいのか。
まず、何を狙うべきかがよく判らない。
目に見えるものをただ写すだけでも風景写真なのであるが、それで自分の意図が撮
れているのかというと疑問である。
山を撮りたいのか、森を撮りたいのか、建物を含めた街を撮りたいのかという意図
をまず自分自身が持たなければいけない。
意図を持ったならば、その場所に行かなければならない。
しかし、ただその場に行っただけでは意図したものが撮れないのが風景写真なので
ある。
富士山はある。
あるにはある。
しかし、自分が撮りたいと思う富士山がいつでもあるのかというと、そうではない。
朱鷺智庵さんの撮った、円盤状の雲がかかった富士山を撮ろうと思えば、その雲が
かかった時に偶然にその場に居合わすか、その雲が発生するまで延々と待ち続ける
か、しかないのである。
自然現象を人間の手でどうこうする事は出来ないのである。
ってもさまざまな顔を持っている。
それらを自分の意図してものに撮ろうと思う事自体が多大な困難を極めるのではな
いだろうか。
写真家の土門拳さんは室生寺において、快晴の日に「雪の室生寺」を撮りたいと思
ったところ、翌朝には積雪となった、という話があります。
土門拳さんは超能力者であったに違いない。
そういった超能力を持たない私にとって、意図した風景を意図した通りに撮るなど
という事は夢のまた夢なのである。
した風景と出会えるチャンスの一番大きい朱鷺にその場所に出向き、忍耐強くシャ
ッターチャンスを待つ、という事であろう。
その時間と忍耐を持つというのがまた至難の業である。
ゆえに風景写真は難しい。
ここは気軽にカメラを持って街山海森谷にぶらりと出かけ、目に付いた瞬間瞬間を
新鮮な目で捉えてみたいものであります。
そういった偶然の出会いの中にもはっとするほどの美しく心を打つ風景があり、ま
たそれを捉える事も出来るのである。
なによりまず、カメラを持って出かける事ですね。